第2章:自転車について調べる

自転車通勤を始めて半月。


「ダイエットに効く自転車の乗り方」というような記事を読んで、ケイデンスの概念を知った。
そうすると、サイクルコンピュータ(サイコン)を付けたくなる。が、そこは軽快車。どこにサイコンなんて付ける場所があるのか、いやそもそもママチャリにサイコンなんて。


そんな時に、毎朝の通勤でバトる(でも余裕で負ける)ロードバイクがふと頭に浮かんだ。「ろんぐらいだぁす!」という自転車マンガを読んでいたこともあり、ロードバイクの存在は知っていたけれど、自分には縁がないなぁと思っていた。
でも、サイコンの取り付け方やらダイエットにいい乗り方やら、あれこれと調べていくと、クロスバイクという車種があることを知った。今の自転車、たまに乗る程度で2年放置してるから、めちゃくちゃにサビて、塗装も剥がれ、見た目はひどいことになっている。買い換えてもいいんじゃないか?距離は全然走ってないけど。。。

そこから先は怒涛の調査。GIANTのESCAPE、ホダカのHONESTONE・NESTO・コーダーブルーム、ブリジストンはTB1かCYLVAのF24か…。ある店の店員さんはGIOS推しだったな。セオサイクルのEAFEELSもいいな。Momentumはブランドごと無くなってた。あさひのプレスポは評判が悪くなってたな…。
さまざまな自転車店、家電量販店などを回って、どのような自転車があるのか、どんどん頭の中に知識の地図ができていく。このころ思っていたのは、通勤快速用として、普段乗りのためのクロスバイク。だから泥除け、かご、馬蹄ロックは必須。なんならハブダイナモのオートライトがいい。それをオプションで付けるのか、ついてる自転車を買うのか。そもそもカッコイイのがいい!
このころ、さいたまのヨドバシでF24に試乗して、そのカッコよさと持ち上げたときの軽さにほれ込んで、もう頭の中は「クロスバイクが欲しい!」一色だった。
フロントフォークはまっすぐ伸びてるのがカッコイイ。Y's ROADの店員さんいわく「曲がってるほうがショック吸収するし、クロモリやスチールのフォークのほうがいい」っていうけど、アルミの軽いのがいい!多分替えないけど、ステムがネジ留めでハンドルも替えられるのがカッコイイ!


そんな、そしてたった5分・15mを3往復試乗しただけの実経験と、スマホの画面上で調べた経験に裏打ちされない知識を蓄えたところで、会社は夏休みを迎えた。
この夏休みに自転車が買えれば、きっと僕は買ったその日に50kmくらいのサイクリングに出かけるだろう。それくらい、心が浮ついていた。


(続く)

第1章:自転車通勤を始める

今年は、年頭から体調不良が続いた。


1月末のおたふくかぜ様の症状は、おたふくかぜではなかったが、ウイルスが違うだけで症状はおたふくそのものだった。
4月末にもひどい風邪をひいた。
1月の時に血液検査を受けたら、おたふくかぜの抗体も無くなっていることが判明したが、それ以上に肝機能の悪化が問題になった。産業医は「血圧下げようと飲んだ漢方のせいだろう」と言ってくれたが、5月の健診であまり改善していないことから、おそらく食生活の問題と判断された。


まじめに運動しなければ。でも、平日はあまり時間が取れない。
1月の健診結果を見たころから、自転車通勤という言葉は頭にはあった。家から会社まで15km、1時間。ちょうどいい距離、いい時間。だが、会社の移転をきっかけに、駐輪場が狭いという理由で自転車通勤は禁止になっていたので、諦めていた。


諦めていた自転車通勤だが、ある日、閃く。「会社まで乗って行こうとするから難しい。途中まで乗っていけばいい。」
通勤経路は、自宅最寄り駅から地下鉄で池袋へ。池袋から埼京線で大宮方面へ。だから、家から赤羽あたりまで自転車で行けば、ショートカットにもなる。これだ。
さっそくリサーチを進めると、浮間舟渡駅が一番条件にあうことが分かった。家からもむしろ近いが池袋からは埼京線で都内最遠なので、時間的にも余裕ができる。
そしてある土曜日の夕方、浮間舟渡駅まで走ってみた。片道7km、久しぶりの長距離(?)ライド。30分もかからない。行きは下り坂ばかりで、非常に楽だ。
帰りは…急な上り坂。登り切れず、押して歩く。それでもいい。ちょっと楽しい。その日のうちに自転車屋に持ち込み、チェーンを軽く見てもらうが異常なし。


翌週から、行きは7km、帰りは9kmの自転車通勤が始まった。帰りの道のりが長いのは、急坂を避けて遠回りしようというルート検索の賜物である。それでも内装三段の一番軽いギヤでぎりぎり登れるくらいだったが。
その1週間の間で、行きのタイムは3分縮まり、また近道を見つけてさらにタイムを縮めた。帰りは登りきれない急坂の横にエレベータ付き歩道橋を見つけて、エレベータで上下移動という裏ワザを見つけ、遠回りをする必要が無くなった。


身体にもさっそく変化が現れた。1階から4階まで階段を登ったときの息切れが減った。すぐに腹が減るようになった。汗を大量にかくようになった。会社に着いた時、また家に着いたときには、雨に打たれたかのようにシャツが濡れる。困るので、速乾のパーカーやパンツを買いあさった。最初はユニクロで、その後はワークマンで。ワークマンの作業着は、自転車乗りに最も適した服だと思う。


さらに翌週、自転車を点検にだし、4000円掛けてブレーキシューとワイヤーの交換、微調整をしてもらった。
停車中にちらっと見たいスマホをハンドルに取り付けるホルダを探したが、良いものが見つからず、作業着屋で腰道具入れを買い、ハンドルにスナップオンしてポケットを付けた。
チェーンは朝から1時間掛けて汚れとサビを取り、黒かったチェーンが銀色に戻った。


こんな感じで、自転車に手を入れることの楽しみを思い出してきた。


(続く)

第0章:自転車通勤を始めるまで

昔から、自転車が好きな子供だった。


補助輪付きの自転車を卒業した小学校低学年時代、父が買ってくれたのは20インチのマウンテンバイクだった。もちろん現代のような、サスもギアもない、子供だましというよりも完全な子供用だったけれど、僕はそのマウンテンバイクが大好きで、学区内を飛び出してあちらこちらに走り回った。かご無しが不便と文句を言ったら、父がハンドルに付けるバッグを買ってくれた。そしてハンドルに付けた単1電池4本使用のヘッドライト。これが武骨で好きだった。


そして中学に入ったころ、内装三段の真黒いシティサイクルに乗るようになり、毎朝、高校への7km強の通学路をこれで疾走した。かごに貼ったロスマンズのシールと、左右両方に付けたテールリフレクタ(自分はこれを「目玉」と呼んでいる)、その片側は今は無き「ランピール」(リアホイールのフォークに仕込んだマグネットとリフレクタ側に仕込まれたコイルで誘導発電し、走れば光るテールランプ)が僕の自転車の目印だった。高校で吹奏楽部に入り、近隣高校やホールにもこの自転車で走った。


高校3年になり、より速く走りたくなり、外装6段のシティサイクルに乗り換えた。「ランピール」を使った「目玉」を引き継いだこの自転車も良く走った。地元の大学に進学し、電車とバスを乗り継ぐ生活になったが、バス区間を自転車で走るため、父の運転するワンボックスでわざわざ大学まで送り込み、さらに2年乗り続けた。



ここから自転車に乗らない時代になる。
僕の通った大学は3年からキャンパス移動となり、別の街に住むことになる。その街でのアシとして、ギアなし軽快車を当地で買った。目玉は引き継がれず。4年乗り、最後は所属したゼミに「寄贈」した。おそらく数カ月後には放置自転車として処分されたろう。
社会人になり、上京すると、寮暮らしになったことに加え、(僕の大好きな)鉄道が発達していて、自転車に乗る機会を失った。


6年間のブランクを経て、今となっては、きっかけも時期も思いだせないが…。
今の嫁と同棲を始めた前だったか後だったか、寮を出て2回の引っ越しを済ませたころ。自分に好意を寄せていたと思しき後輩の家の近所に自転車屋があり、自治体の事業で放置自転車をリサイクルして売っている。そんな情報を元に、その自転車屋に行った。そして、20インチの折りたたみ自転車を買った。
嫁とのポタリングには何度か行ったが、なぜか自転車通勤をする、という頭にはならなかった。家から当時の会社まで8km、自転車通勤にはちょうどいい距離だったにも関わらず。そして自転車通勤が許可制と言いつつ黙認されていて、やりやすかったにも関わらず。
折りたたみ自転車のタイヤにはリサイクル車特有のひび割れがたくさんできていて、それを口実に内装3段のシティサイクルに乗り換えた。なんとなくリフレクタが入手できたので目玉を付けたけれど、嫁と時々ポタリングする以外に自転車に乗ることは無かった。このころ、健診であちこち引っかかり、とにかく歩くことにこだわっていた。散歩と称して練馬→杉並→新宿と半日近くかけて18kmほど歩いたこともある。毎週、嫁が社会人講座を受けに行く間に、自分は歩き回っていた。


思いだしたように自転車に乗ったりもしたが、そんな長距離を乗ることはなかった。1年に1回、30km程度乗ることがあった程度か。
自転車はマンションの駐輪場に放置され、クモの巣とほこりで白い車体は茶色と黒にまみれた。それを年に1回、公園の水道で洗う。そんな放置っぷりだった。


そんな放置された自転車に、日の目が当たったのは5月末だった。


(続く)

今日、無事に挙式&入籍を済ませました。

「年内に籍入れよう」といろいろ調べ始めたのが、ちょう ど1ヶ月前の10月12日。

その日のうちに挙式の日取りが決まり、そこから怒濤のよ うにいろいろなことが決まっていった。

色んな人に出会い、その人たちがほぼみんないい人たち だった。みんなに助けられて、何とかここまでこぎ着け た。

…それにしても、嘘のような、ネタのような、いろんなハ プニングだらけの1ヶ月だった。 この1ヶ月、多分忘れられない。

良いお年を

日々のちょっとしたことは、全てツイッターで吐き出すようにしてしまったので、こちらのブログが完全休眠状態。


でも、ツイッターのアカウントをここに出すのはちょっとだけ控えたい。


今年一年は、いろんなことに振り回された。


真っ当だと思った上司は、とんでもない非常識人だった。
震災で、いろんな対策が不十分なのは分かったけれど、その対策を行うための行動力すらこの会社にない、ということも分かった。


会社のため、社員のため、自分のため。
何をすべきなのか、考えて動くことが多い一年だった。
でも、実りはほとんどなかった。
ネタは上司が全て握りつぶしてた。
あーあ。


来年は、今年以上に激動で多忙の一年になると思う。
でも、それなりに頑張って生き延びるしかない。


よいお年を。

つれづれ

先週金曜日のゲリラ豪雨こそ、本当のゲリラ豪雨だったとおもう。


新宿は1時間あたりの雨量が74ミリだったらしい。


会社の前を流れる神田川警戒水位を超え、水防警報のサイレンが2回も鳴り響いた。