原発、賛成か反対か


コロプラの自由帳で、そんな名前の自由帳がある。
賛成・反対の意見を募っているようだったので読んでみたのだが…。


反対派の人たちの考えがどうにも浅薄な気がして仕方ない。


今回の事故を目の当たりにして、原発が怖い技術であることは誰もが知ることとなった。
だが、原発反対派は「怖いから原発はダメ、今すぐ止めよ」という段階で思考停止しているように思えた。


原発反対派の多くは、技術の価値と、それを扱う人間のモラルを混同して論じ、扱う人間のモラルが低いから技術を廃止せよ、という。
確かに扱う人間のモラルによって、その技術は薬にも毒にもなる。しかし、扱う人間のモラルによる技術の毒性が技術の評価になるのなら、原発以前に、自動車や包丁はとっくに取扱禁止になっていなければならない。


反対派のコメントの中には、たくさんの代替案が出されていた。振動による発電床、太陽光発電地熱発電、サーマルリサイクルなど。
これらの中で今、直ちに原発代替として実用的なのはプラスチックのサーマルリサイクルしかないだろう。もっとも、これも二酸化炭素排出の問題が切り離せない。
それ以外の発電方法…とくに自然エネルギーは、まだまだ原子力の代替にはなり得ない。


反対派が最も誤解しているのが、「ソーラーパネルの量産化が進めばパネル自体が安価になるから、原子力の代替になる」という意見。

自然/代替エネルギーの導入コストは確かに大量生産に比例して下がるが、Energy Payback Timeは変わらないし、パネルの発電能力(変換効率)は変わらないという点を見落としている。

さらに、太陽電池の生産には、その太陽電池の発電能力の数十倍以上の電力が必要だ、という点をも見落としている。簡単にいえば「太陽電池の作った電気で太陽電池を作ることはできない」のだが、それが理解できていない。
代替エネルギー原発を15年で代替可能、という意見もあったが、これは逆にいえば原発代替分の自然エネルギー発電所を作るために15年間、原発からの電気がどうしても必要になる、ということでもある。

『蓄電池の性能がアップして、しかも安価になればソーラーパネルで発電→蓄電→使用というサイクルがもっと実用的になる』という人は、永久機関ができるとでも勘違いしてるのだろうか。

そもそも、自然エネルギーの最弱点。四季の豊かな日本で、年間通じて自然エネルギーに安定的に発電させるのは難しい。




原子力と決別するということは、今までの便利な生活を大幅に見直すということであり、その覚悟がある人が「反対」と表明できるものと思います』
ということを書いた人がいて、それに同調して
『電気、無くても構いません。家電製品、携帯、使えないなら使えないでそのように生活しますから。暗かったら提灯、行灯、蝋燭を使えば良い。寒かったら服を着る。暑かったら行水でもしてください。有り難いことに親から2本の足を頂いたので、移動も歩けば宜しい。自分自身が、その生活をする覚悟の上での反対意見です。』
と書いた人もいた。
何と自分勝手な意見なのだろうかと思う。自分は電気のない生活に耐えられるから、他人も電気のない生活に耐えるのが当然、日本という国も電気のない国になれ、という強迫を『覚悟』という言葉で美しく見せかけるこの汚さ。


代替技術が確立されるまで、どれだけの時間がかかるか。代替技術の生産に、どれだけの電力が必要か。
市民の日常生活は、原発分の3割の電気を削減して我慢すればいいけれど、日本の産業を、被災地の復興と被災者の生活を支える工場などはそうはいかない。工場の電力を3割削減すれば、工業国日本の信頼や、日本の通貨への信頼や、被災地の復興に掛かる時間は3割どころではないロスになる。
マクロ的に経済を見た場合、原発を止めて3割の電気を失うことは、それ以上の損失を被ることになる。それは確かに安全とトレードオフできるものではないかもしれないが、だからといって安全最優先のために捨てて良いものでもない。


最後に。
元エンジニアとして。
「〜〜の技術が向上すれば何とかなる」という素人発言の多いこと。
その技術を向上させるために、事故の前からどれだけのエンジニアが心血を注いで技術開発をしてきたのか。
そんな努力をしても、自然法則には逆らえない。
その自然法則に逆らうような発想を「技術が向上すれば」という一言と共に技術者に押しつけて、技術者の心を折るようなことは、絶対にやめて欲しい。