つれづれ

3月末からずっと続けてきた日記を、週末で途切れさせた。
あえて、書くこともないのに無理やりに書いていた日もあった。
そして、その一見無意味で、しかし意味のある行為から、意味を取り去って、やめることにした。


この日記を誰かに読んで欲しい、とかいう目的で書いているわけではなく、単に紙とノートの日記を書くよりも、キーボードで打ったほうがなんとなく書きやすいし、なんだったら仕事中にも書けたりするので(!!)、書いていたりするわけだ。
だが、3月末から、あえて毎日書いていたのは、たった一人、ある人にこれを読んで欲しかった、という目的があった。
それが誰かは書かないけれど、もし、その人がこの日記を読んでいたら、きっと自分のことだろう、と分かるだろう。
その人がこの日記を読んでいる確率は5分5分、いや6分4分くらいだろうか。なんとなく、読んでるんじゃないかな、という気がするのだけど、確証は何もない。


その人に、何かを伝えたかったわけじゃない。何かを求めていたわけでもない。
ただ、無意識に何かを求めていたとするならば、それは、その人が僕の近況を、僕とのコンタクトなしに知ること、ただそれだけだったんだろう。


その人に伝えたいことは、ほとんど全て、伝えた。最後のメールで。
ただひとつ、伝えていないことがある。それはきっと、墓場まで持っていくのか、それとも、僕とその人の人生が、この先どこかで再び交わって、1本の道になるときがあるならば、そのときに伝えることもあるのかもしれない。
多分、交わることはないんだろう、という予感もしている。


何かをやめる、ということに、僕は時々、気楽さを感じることがある。
高校時代、紙で日記をつけていたころ、自分に「毎日必ず書く」という縛りを設けていた。
そして、それをやめて、書きたいときに書くようにしたときに、自分が自分で設けていた縛りから解き放たれたような、そんな開放感を感じたのだ。


自分で自分に制限を作ることは出来ない。
世間一般の声がどうであろうと、僕は僕が自分にGOサインを出したら、それに従うし、自分が自分に赤信号を出したら立ち止まる。
自分で自分にウソをつくことはできても、そのウソで自分を縛ることはできない。
それがウソだと、何よりも知っているのは自分なのだから。


今の僕は、もう赤信号を見て、しっかりと止まっている。その方向に向けて、赤信号でもアクセルを踏み、暴走することはない。
時々ふとその方向を見て、青信号が灯ることはないかな、と、ちょっとだけ気になっているときもあるけれど、たとえ青信号になったとしても、アクセルを踏めずに、僕はその場に立ち尽くすのだろう。


その人がここを見ていて欲しい、という気持ちと、見ていて欲しくない、という気持ちが入り混じり。
赤信号のままであって欲しい、という気持ちと、青信号が灯って欲しい、という気持ちが入り混じり。
時々、僕の頭のなかはごっちゃになるのである。