「学ぶ」って

ふとテレビで、僕の大嫌いな、態度のでかい占い師が学生に向かって「学生だったら信じ込むものだよ」とか言ってるCMが目に入って、なんだかなぁ、と思ってた。
そんな文章を、某オーケストラのオーボエ奏者が本に書いていたのを読んだことがある。その文章はすんなりとアタマの中に入ってきて納得したことを覚えている。


僕が思う「学び」とか「学問」というのは、知識の詰め込みでも、他所で得た知識の受け売りでもなく、師がいるならその師のいうことを信じ込むことでも無いと思っている。これらは単に「記憶」の刷り込みでしかないと思っている。
もしこれらの行為が「学問」や「学び」であるならば、全ての学問は過去の知識のおさらいになるだけであり、そこから新しい発見は「偶然」と出会わない限り生まれないのではないか、と思うのだ。


僕が思う「学び」とか「学問」というのは、教えられてきたこと、与えられてきた知識、全てを疑い出す、その時点で始まるものだと考えている。
師の教えてくれたことを疑う。自分で新たに調べなおす。新しいソースを探す。そして、自分なりの意見を編み出す。その意見の正当性を客観的に評価する。これが学ぶ、ということでは無いだろうか。
疑う、というと言葉が悪いかも知れない。「あなたの言ってることは本当か?」という「疑う」よりは、「なぜあなたが言っているようになるのですか?」という疑問を持つことが大事だ、ということだ。
単純に例を挙げれば「金属は電気を通す」と教えられた場合、そこで「ああそうですか」と納得してしまったら、そこで終了である。「金属は電気を通すのはなぜなのですか?」と疑うプロセスを得た時点で、そこから「学問」がスタートするのだと思う。そこから先は非常に広い世界になる。原子と原子のつながり、原子の性質、電気伝導の仕組み・・・これらをひとつひとつ習得しなければこの答えは導き出せない。


結果はどうでもいい。師の言うことが正しければ師を改めて尊敬すればいい。誤っていたら、師にその結果を突きつけて議論すればいい。そこから新しい何かが生まれるかもしれないし、生まれないかもしれない。「学問」から新しい何かが生まれるのは副次的なものであって、それが目的ではないのだと思う。


学生だったら信じ込む。ある意味正しいだろう。でも、学生だったら、信じ込むプロセスを経て出来上がった自分の知識の基礎をもとに、物事に疑問を持ち、自分の力で調べていくことを覚えるべきだろう。そこまで出来て、やっと「学んだ」ということが出来るのではないか、と思う。


某オーケストラのオーボエ吹きには、ドイツ留学時代にチェンバロ奏者の恋人がいた。ともにバロック様式の音楽を演奏するのだが、二人で合奏をすると毎回ケンカが絶えなかったのだという。これは、二人とも自身の師の奏法、音楽感情表現が絶対であると信じ込んでいたからである、と懐述している。そして、結婚した今では、合奏をしてもケンカは無くなった、ということだ。
僕が思うに、二人とも、留学生時代は自身の師の演奏が絶対であると信じ込んでいた「学び」の過程にあったのだろう。そして、腕を上げ、いろいろなオーケストラと共演したりしていくうちに、自身の師が「師」ではあっても「絶対的存在」では無いことを学んで、習得したのだろう。事実、プロ演奏家は指揮者の棒に従わなくてはならないのだから。
そうして学んだことで、お互いの演奏を受け入れ、ケンカすることなく合奏が出来るようになってのではないか、と僕は考える。


最近、技術的知識に乏しい某評論家の文章を全くトレースしたかのような「文系女子大学院生」のブログ、というものを読んで、ふとつれづれ思った。
この「文系女子大学院生」はまだまだ「学び」の世界には到達していないんだろうなぁ、と。
この「文系女子大学院生」が早晩、この評論家の言っていることが本当に正しいのか否か、もしくは、何が正しいのかを自分の頭で判断できるようになることを祈る。